今日は、当ブログからもリンクさせていただいている
lotus62さん(
http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/ )
namaさん (
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/ )
による展示「
荻窪暗渠展」(杉並区郷土博物館分館・9/17-11/27)に行ってきました。

さすがに見せ方が上手いなあ・・・というのが率直な感想です。
顔ハメとか、投票とか、ジグソーパズルとか、占いとか、蓋をあける仕掛けとか。
動的な仕掛けがあるとやっぱり良いですね。
私が展示を見ていた間にも、年齢性別様々なお客さんが来てました。
暗渠や川跡に関する展示はそれ自体珍しいけれど、
研究されている方々それぞれでもきっと違った方法でアプローチできそうなので、
もっと各所でこうしたものが行われれば・・・と思うところです。
まだ1月以上展示されていますので、まだ行かれていないみなさんもぜひどうぞ。
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さて、展示の中でも触れられていた
「観音川」(四面道から白山神社前を経て善福寺川へ至る水路)の現在について、以下で掲載したい。
観音とは流れの中ほどにある、光明院のことであるとのこと。
背景などについてはnamaさんの記事をぜひ参照していただきたい。
で、私はあくまで「現在わかりそうな流路」について追っていこうと思う。
展示にもあったと思うが、水路跡探しには推理・パズルのような楽しみがあるものだ、
というのをちょっとでも表現できたらと考えている(私はそれを8割机上でやってしまうのだが)。
※地図は使い回しです。暗渠・水路跡を網羅したものではありません。
土地境界的に最上流部と言えるのは、銭湯gokurakuya横の中途半端な行き止まり街路。

誰も間口としていないマンションとマンションの間のこの街路を残す意味はあんまりない。
右側がマンション化する前に奥に家があれば間口であったかもしれないが、
それなら公共の土地ではないだろうと思う(どこまで里道としたかは地域差があるが)。
下水道台帳図では公共の下水管はなさそうだが、
使用状況的にはずっと公共の敷地であり新規建築時に払い下げも受けていないということになる。
状況証拠としてでしかないがは私はここを確認できる限りの最上流部としたい。
そのまま下流方向へ進むとこの街路である。

これも認定道にならない幅の、どの家も間口としていない街路で、先程の街路との連続性もある。
という状況から水路跡(全面が元水路)として採用したい。

その先はマンション(右)と病院になってしまい水路部分は払い下げられているように見える。
見えづらいが手前側の2つの境界標の幅がおそらく水路の幅だろう。
そのまままっすぐ延ばせば塀の右側が続きということになる。
しかし病院側になぜか無意味な隅切り状の砂利敷があるのが気にかかる。

塀があるのだから隣のための隅切りは必要ない。払い下げたにしてもここだけ砂利にする意味は?
実はこの病院には公開空地が設定されており、
別の側の様子を見ることができる(四面道交差点のラーメン店横の街路から入る)。

ここだけはカラータイル舗装の公開空地とは様相が違ったが単に公開空地に含んでいないだけかも。
さきほどの水路跡の延長ではなくT字になる。参考資料に留める。
さて、さきほどの水路跡が直進すると仮定するならば、ここに出てくることになる。

様子は見えない。幅としてはアリだが、街路側の道幅変化はゼロ。
一方、この家を1軒挟んだ四面道寄り(駐車場あり)には、
こんな蓋つき側溝があり街路のL字溝の下に接続している。

民地間に私設の排水路があるのは街道沿いなど古い街では決して珍しくはない。
しかし東京ではそんなに見かけないし、
さほど低地とも言えない地域の排水路にしては幅がやや広い気もする。
普通に考えれば土地の無駄である。なのに残されている、ということは・・・・。
私としてはこちらに少し回り込んでいるというほうを支持したい。
ここまでは状況証拠しかないのだが、この先で四面道交差点に出てからはこの資料が使える。
都市再生街区基本調査成果の提供サービス(β版)
同意して先に進み、当該箇所(リンクできないが)を表示して、
表示項目選択タブから「公図と現況のずれ」を選択。すると公図界が表示されるはずだ。
環八通りの西側に3本の並行した赤線(筆界)が見えると思う。
これにより形成される2つの隙間のうちどちらかが公図上の水路である確率が高い
(道/道という可能性もゼロではないが、こういう場合たいていは水/道か水/有地番である)。
もちろん道路造成時にそうなったものではあるが、現在の水路敷を知るには充分だ。
これが光明院の北東角まで続く。

画像の右側の茂みが光明院で、少し小高い。その手前で3本線が途絶えて、道路反対側へ移る。
なお、地形を現地で見る場合には「改修された部分は見ないことにする」のが大事である。
つまり道路や線路や宅地や橋を造成するために上げ下げしたところは無視し、
元々の宅地や道があった高さはどこだろうか、と考えるのが手っ取り早い。
たとえば環八通り自体に暗渠があってもおかしくないが、地形の参考にはしない。

通りの反対側、右側が暗渠の小径である。
ここでは典型的な道路幅の変化が見られる。水路敷が曲がって離れれば、そのぶん道路が狭くなる。
これはつまり、使える公有地を最大に使って道路としているためであり、
水路も道路も敷地の扱いとしては公共の土地であるということを示す。
土地境界を考える時には「民地かどうか」が大切で、
「水」と「道」、或いは「水」と「公立学校」や「公園」の筆界なんて考えてもあまり成果はない。
互いに持ち主が市町村や国ならどうとでもなるし元々税金もかからないのだ。

ここの暗渠を通るのも何年かぶりだけど、駅の近くにしては随分荒れている。
まあ善福寺川関係の脇の支流暗渠はどこもけっこう扱いが雑だが、
これは足立区なみの荒れ方だ。あ、褒めてますよ。
途中で1箇所分岐があり、白山神社前に出てくる短い支流がある。

これはその支流側から見たところ。
これらの街路には下水道台帳図でも管が確認でき、「水路敷」の文字が入っている。
台帳図で水路敷の文字があれば、証拠としての順位は高いと言える。あまりないが。
支流のほうがどこに行くのかは区画整理後であるためいっそうよくわからない。
3方からの下水管が集まってはいるが・・・。
ま、区画整理されたきれいな街路で水路跡を追うのは徒労に終わる場合も多い。気にしないでおこう。
やがて線路にぶつかる。※暗渠展ではこのタイプの車止めに1票入れた。

線路側のコンクリ壁に何かないかと思ったが、特に何も見いだせなかった。
水路が鉄道敷や古い壁を抜ける部分にコンクリの出っ張りがあったりする場合もあるので、
一応丹念に見ておくにこしたことはない。
たとえば
こういうやつのこと。
線路の先はここに出る。かなり低くなっていることがわかる。

ちなみに公図界もここに繋がっている。3つの敷地に分割されているが、
広いのは区画整理でできた道、残りどちらかが水路だろう。

上写真右寄りが水路があった土地ということになるが、現在も暗渠が右側にあるとは限らない。
ただ、水路敷があったことは確かなようである、ということにすぎない。
再び環八通りに出る手前、レンタカー店の前でまた街路の形状が膨らむ(環八側から撮影)。

そしてすぐ先に下水道のマンホール2つが現れる。

このまま環八通り東側歩道を南下する。公図界にもまた3本の筆が復活する。
台帳図によれば下水管(合流管)は善福寺川手前で善福寺川上幹線に入り東へ向かうが、
雨水は荻窪橋下で善福寺川に流しているようである。

なるほど、橋の下を見ればけっこうなお口が開いている。
ということで、雨水の流れとしてはこのルートが概ね現在のものと言えるのではないだろうか。
環八の西側(上荻2丁目31)のガタガタした街路のあたりも怪しいが、
こういうのはそれだけでは確証がないため私は基本的に水路跡としては考えない。
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さて、もうひとつ個人的に行きたいと思っていた場所がある。
以前善福寺川を歩いた時には主に南側を歩いていたため撮り逃した蓋暗渠が近くにあるのだ。
ひとつは荻窪暗渠展でも紹介されていたが、もうひとつある。
紹介されていたほうがこちら(荻窪高校脇)。
公図界・台帳図とも何もないが現況としては立派な暗渠と言うほかない。

もうひとつがこちら。
公図界が上流側横田医院横まではっきりと描かれているが、反対側の痕跡はわからなかった。

これらは直接川に注がず、先程の善福寺川上幹線に結ばれていると思われる。
また公図界でも細い敷地がちょうど柵のある歩道と同じ位置に存在している。

嵩上げでない柵つきの歩道は東京においては水路跡である可能性は割と高いと思う。
公園・学校・団地・公共施設敷地を切り欠いたものはその限りではないが、
ここの場合は公図とも一致する部分が多く、学校前だが敷地を提供しての歩道ではなさそうだ。
かつては
忍川橋の下からこれらの雨水を排水していたようだが、今は出口が埋められている。

現在の雨水の排出先は忍川下橋の下のようで、台帳図と現況が一致する。

で、問題はこれらの短い暗渠の上流がどうなのか、ということなのだが。
私は(展示での推測に反して)上流はないと思っている。
善福寺川には川によってできた崖の下あたりまでしかない、
私的には「ひげ暗渠」と呼んでいるごく短い暗渠が散在している。
例えば環八の西側、南荻窪3・4丁目にも3本の暗渠が確認できるが、どれもごく短い。
※過去記事にある
これとか
これのこと。
こんなようなモノと、状況的には同じなのではないかと推測する。
要するに、これらは水源から長く伸びて田畑を潤す用水路ではなく、
崖下の低地に溜まる水を流す排水路であるというのが私の認識だ。
きちんと調べてはいないが、かつてはもう少したくさんあったのではないかと思う。
続きがない水路跡というのは、あまりロマンがない考え方になってしまうのだが(笑)。
しかし水路探索者として「水は必要でもあり不要でもある」ことだけは忘れないようにしたい。
なぜそこに水路敷という土地が存在し、現在に至るのか。
まさに飽くことのないパズルである。本文でその思考の一端が示せたら幸いだ。