2010年09月21日

【特別編 2-2】中谷戸

●地図はこちらのリンクから。

 ただ水路や商店街を歩いているだけの冴えない僕の横にいま、女の子がいる。これから季節が色を失いだすその少し前、地上に踏みとどまる暑さだけが虚しい夏の終わり。彼女は黄色いワンピースを着ていて、僕はカーキ色の半袖となぜか黒いズボン。谷の入口のコンビニ前で、まったく似合わぬツーショットを通行人の方々にご覧いただいている。
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 これから僕達が歩く川の名前は、特にない。10年近くもこのあたりに住んでいた僕が言うのだから間違いない。けれどもたまたま、僕が仕事をしていた関係から、ここを行政関係では「打越川」と呼んでいるらしいことを聞いた。確かにここは八王子市打越町だが、単に町名からつけた陳腐な名称であるように思えた。それを知ったのはこの歩行が決まる一週間程で、それでなんだか興ざめした僕がいた。
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 しかしもっと驚くことが2日前に起きた。僕が昔住んでいた地域を歩くことをどこからか聞きつけて、わずかな時間だが同伴する女性が現れたのだ。彼女は旧知の仲ではあったが、この水路と同じく、僕はもう3年も顔を合わせていないし、直接的な連絡もしていなかった。彼女を知悉しているわけでも、彼女の特殊な部分を知るわけでもない。僕のほうが何でも曝け出す性格であるぶん、いろいろと知られているかもしれない。ただ、恋人ではなかったにしても、彼女は僕の家に何度か遊びに来ていた。
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 打越川と中谷戸の分岐点。僕はいつも、帰り道にはこの中谷戸の川沿いを歩いていた。16号バイパス沿いの歩道は急な傾斜をまっすぐに登るので退屈で疲れるし、若干無駄に登りすぎて最後には一旦下ってさえいた。中谷戸側は信号が短いものばかりなのも気に入っていた。彼女を駅まで迎えに行き、僕の家まで歩く時もこの道を使った。
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 開渠は音だけならばさわやかで、まさに「せせらぎ」だ。しかしそれもすぐに土に隠れてしまう。大きな管が剥き出しになっていて、川跡は埋められて狭い通路になる。古道に沿っているにもかかわらずなお通路として残されたこの川跡は、砂利またはコンクリートで固められていて、辛うじて雑草には覆われず、今はコスモスが適当に生えている。
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「変わってないね」
 駅で落ち合ってからほとんど無言だった彼女が言った。狭い谷戸の住宅地。いまさらマンションが増えるというものでもない。
「そうだね、このへんはね。・・・ここの川跡の上、歩いたことある?」
「たぶんない。こっちの草だらけのほうは蜘蛛がいそうだし、蓋のあるところは子供の頃に『なるべく歩かないように』って言われて、なんか落っこちそうで怖い。ほんとはそんなことないんだろうけどね」
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 僕は昔から、プライベートを訊くのが苦手だ。質問されるのは好きだし、自分のことなら極力何でも答える。けれど他人に訊くのはどうしてもダメだ。また、知らなくても人を受け入れることはそれなりにできると思っている節がある。最低限知っていて欲しいことは、自分から言うだろう。・・・したがって、する質問と言えば、こんなどうでもいい内容になってしまう。
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 埋め立て通路から白いコンクリートの蓋がけ暗渠にかわるところで、彼女は僕に先んじて、ひょいと軽く跳んでその上に乗った。もちろん蓋は落ちたりしないし、巨大なコンクリート蓋はコトリと僅かに傾きを変えることすらなかった。けれど彼女はわずかな恐怖からか、着地と同時に僕の手首を掴んでいた。
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「大丈夫だね」
 少し笑って彼女は言った。僕も少し笑った。3年ぶりの緊張が少し解けた、かのように思った。けれど、彼女は握った手を離すタイミングを逃した。よって新たな、別の種の緊張が芽生えた。よろける場合はよろけなくなったところで離せばいいのだが、この場合は始めからよろけるわけがないのだ。しかし手を振り解くのもまた、何か冷たい感じがする。手というのはどうも、必要以上に意味を感じてしまう。結局、暗渠が道路と分かれて住宅裏に入るところ、つまり横並びに歩けなくなるところまで、時間にしたら数十秒だが、不自然に腕を掴んだままだった。
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 道路と暗渠の間の住宅には、二人で勝手に名前をつけた、よく吼える犬がいた。僕一人の時は慣れてきたせいか吼えなくなったが、彼女がいるとまず間違いなく吼えた。しかし今日は犬の姿はなく、鳴き声も聞こえない。
 左側はマンションの擁壁。一方、家屋のある側は塀が少なく、個人宅の裏側が見えてしまう。声が響きそうなのと視線がありそうなのとで、会話がしづらい。僕らは粛々と歩いた。そもそもこの水路側の通路は、普段から男子小中学生くらいしか歩いていないのだけど。
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 この先は昔の流路を失い、バイパス建設のために整えられた暗渠になる。僕は職務上、ここの昔の流路をだいたい知っているが、歩いた限りではその面影はない。ただ、彼女はこの埋め立て暗渠上やバイパス脇が放置自動車だらけだった時期によく来ていたので、
「あ、ちょっと違うかも。違う?」と言った。
「うん、きれいになったね。俺が引越すちょっと前からかな」と僕は答えた。
 左からは山が迫り、うちに来る人々はここを「ちょっと怖いところ」と印象づけられるらしい。その上、放置自動車だらけだったのだから、彼女も相当記憶に残っているのかもしれない。毎日のように通っているとどうでもよくなる程度のことだが、改めて見ると今の整備具合もかなりずさんだ。持ち主が個人のままにでもなっているのだろうか。
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 左手には昔からの山林、右はバイパスの土手の人工的植生、先にはその両方に挟まれた狭い道路が抜けている。山の匂いと冷気が強くなり、暑さと特殊な状況に置かれた僕の頭を少し醒ましてくれた。ここで右折して、道路と水路は盛土のバイパスの下をくぐる。暗渠は再びコンクリート蓋になる。雨の日はツルツルと滑ったことを思い出した。人によってはこの部分をトンネルと呼ぶ。高架ではなく盛土だから確かにそうだが、僕はあまりトンネルだという意識をしたことはないし、他人にもそう紹介したことがない。ためしに聞いてみた。「トンネル? だと思うよ」とのことだった。素直に、そうか僕はトンネルの近くに住んでいたのでもあるんだな、と思った。
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 この「トンネル」の先は急な登り坂で、僕はその頂上近くの小さなアパートに住んでいた。彼女も10回以上はこの坂を登ったはずだ。

 彼女は可愛らしく、とても良い人だった。僕もおそらく、良い人だと思われていた。しかし、ただそれだけである。だからこそ、ある線からは進まないという安心のもと、彼女は僕の部屋へと何度か来たのだし、僕もそれを受け入れた。つまらない話だが、そのバランスなしにはそこまで仲良くもならなかっただろう。ただ、他人と何時間か一緒に生活すると、普通の関係では見えないことが見える。生活を知るのと知らぬのとでは大きな差がある。生活の様を見せるのは勇気がいるが、そこが男女の肉体以上のある種の理解になる、僕は今でもそんなふうに思っている。もっともそんな相手も今はいない。
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「・・・登る?」
 ここは普通の速度で登るだけでも息が上がる。体温も上がる。この暑い中、昔の住処を見たいわけでないのなら登る必要もまったくないので、僕は訊いた。
「・・・いい」
「うん、やめとこう」
 どうせ部屋はアパートの2階だし、急坂だから実質3階の高さである。しかも垣根のように樹木があり、下から見るのは困難だ。僕もそれほど見たいと思っていなかった。最後に全てを片付けた何もない部屋と、その窓からの谷戸の風景が心の中にあればそれで良い。
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 僕らはしばらく坂の上を見上げただけで、また水路のあるほうへと戻った。比較的早くに斜面を造成して造られたこの旭丘団地は、3年前と変わらぬ、静かな住宅地のままだ。一方水路は、その斜面の底をバイパスに沿って流れている。片側の家々はその道路敷に飲み込まれてなくなったらしいが、団地側には古い家がまだ残っている。
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 バイパス建設によって改修された部分は、ほぼまっすぐな水路になっている。水はしっかりと流れていた。ときおり、何者かの悪戯のように、大きな吐水音がジャッ・ジャッ、と聴こえる。ただの生活廃水の一部だろうけれど。その水の音と、土手と防音壁ごしにバイパスを通る車の音、そして僕らの足音だけが車道に響いていた。虫や鳥の声はごく小さい。彼女は僕の右側、つまり水路ではないほうを歩いている。
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 やがて集落も終わってしまう。直進する道はバイパスの出口になっていて向こうからの一方通行になる。横には歩道があり、この歩道を通って橋本まで散歩に行くこともしばしばだった。地形は谷に見えるがここは人工的に切り開かれたものだと思う。本来の谷戸はやや左に折れ、道と水路がまたしてもトンネルを形成している。トンネルの先に見える風景はただの山林である。
「ここ、行くの?」
「俺だってあんまり行きたくないよ、夏は。でも取材だからね」
 夏に行きたくないのは、草木がかなり茂って虫が多いからだ。彼女は買い物でこの先を通ったことがある。ここを抜けると北野台のいくつかの店のほうへ早く出られるのだ。でも都市生活者が買い物に行くための道という感じはまったくしない。こんな道を抜けて真新しい郊外型ドラッグストアに行くなんて、ある意味馬鹿げている。
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 道路と蓋がけ暗渠がバイパス下を貫く。そしてすぐに、幅が1mあるかないかの開渠になった。ここで本来の流路に戻るが、やはり痕跡はない。狭い谷戸にわずかな農地がある。谷戸田ならぬ谷戸畑だ。農作業している人が数人いるので写真が撮りづらい。周囲は鬱蒼とした山林になる。
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「虫いそう」
「ごめん、虫よけ持ってくるの忘れた」
「それもだけど、蜘蛛」
「・・・なんとか抜ける」
 道幅がより狭くなり、右手に最後の人家がある。車はここまでしか通れない。歩行者だけはこの先の「いしばしいり緑地」へと出ることができる。石橋入とは中谷戸の南にあたる部分の旧小字名だ。もしこの末端部の道が通り抜けできないものだったら、外部の人間が入れない、この家の私道になっていただろう。幸い、このあたりは行き止まりの谷戸が少ない。この先の北野台や片倉台を拓く時に、道をちゃんと繋げて作ったらしい。
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 水路は人家のほうへと逸れて、やがて見えなくなる。道は山に寄り添い、舗装幅1mほどになる。太陽の光がかなり遮られるくらいに、頭上にも枝が茂る。
「よし、さっさと抜けよう。頭低くしてね」
「うん」
 僕は逆に彼女の手首あたりをつかむと前に立ち、鞄を前にかざしながら早足で進んだ。こうすると蜘蛛糸に直接ひっかからない。といっても大きな巣ではなく、移動の際に使ったとおぼしき糸がほとんどだが、僕もあまりその感触は好きではなかった。通路は公園内のカラーブロック舗装になり、九十九折に北野台の台地へと登って行く。忍者のように低い姿勢でふたつの影が通り抜けるのを頭上でカラスが見ていた。

 僕はなぜこんなことをしているのか。なぜこんなところで女の子の手を引いて山道を通り抜けているのか。それが改めて不可解に思えた。しかしよく考えれば、谷戸の水路を歩くためにわざわざここまで出てきてうろうろしているほうが、多くの人からしたらよほど不可解だ。おかしいのは僕だった。
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 坂の上にはベンチなどのある開けたところがあり、人工池が口を開いている。ここが目に見える場所としては最上流、中谷戸の水源地である。奥からサビのようなものが流れ込んでいて、決していい風景の池ではない。
「前歩いてくれてありがとう。・・・ここでおしまい?」
「うーん、まあそうだね、一応ね」
 コンビニで買ったお茶を飲んで、ベンチで少し休んだ。彼女はやっと少し、おしゃべりのエンジンがかかってきたようだ。彼女の場合、久しぶり会うとだいたい20分くらいは距離感を取り戻す時間が必要だった。そして互いに「ああ、ここまではして大丈夫な人だった」という安堵を得るのだが、今日はさらに特別な状況だったために倍の時間がかかってしまった。

 僕らはネットで知り合った仲なので、会話と言えばネット関係の人々の近況のやりとりがまずは最初に来るが、今日は時間的にその最初だけで終わってしまいそうだ。陽が傾きかけた。彼女も近いところに住んでいるわけではないから、返さないといけない。僕だって、もうここに家はないのだ。僕らは会話もそこそこにベンチを立った。

 公園を出たところから、片倉台のバス回転場が見える。八王子駅へ行くバスが止まっていた。あの懐かしい色合いは神奈中バスだ。1時間に1本だけ、ここと八王子とを最短距離で結んでいる。
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「帰るなら、あれ乗るといいよ、ちょうど神奈中だしまっすぐ行く。終点まで乗ればいいから」
「あ、うん、わかった」
「変なことにつき合わせて、こんなところでお別れでごめんね」
「ううん。・・・あー、あのさあ。わたし、今度、結婚するから」
 突然、「最低限知っていてほしいこと」を、ちょっと早口で彼女は告げた。
「はぁ!? それって最初に言わないか」
 僕はこの日で一番大きい声を、半笑いで出した。
「やーなんかこういうのは恥ずかしいから。またね」
「・・・ん、まあ、またなんかで教えて。バス乗りなよ」
「うん、じゃあね!」
 彼女は信号が変わったのと同時に、バス停へと駆け出した。田舎臭い色合いのバスにエンジンがかかり小刻みに揺れるのが見えた。程なくして、僕がいるのと反対のほうへとバスは走り去った。

 大して歩いたわけでもないのに、僕は珍しく疲れてしまい、寂れた商店街の自販機で甘いコーヒーを買った。バス停のベンチでそれを飲みつつ、ようやく涼しさを感じさせるようになった夕方の風で、いまだ流れ続ける汗を乾かした。なぜかここでこうしてドリンクを飲むことが何度かあった。なんとなくそういう場所がある。引越してしまってからも、自然と行き着くのはそんな場所だ。

 僕が3年前と変わらない中谷戸の風景を確認しに来たように、彼女もおそらく、3年どころかずっと変わらない僕を確認しに来たのではないだろうか。(終)


●地図はこちらのリンクから。

※水路の部分以外は無意味なフィクションです。
タグ:八王子市
posted by しかすけ at 22:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 特集・企画記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
おもしろかったです!
小説を読んでいる気分で、文字ばかり追ってしまいました。
それで、読み終えてから写真だけ追ったのですが、
ここのコンクリ蓋歩道はなんだか立派ですね!
ちゃんと歩道って顔してます。
トンネル先のカーブ部分も見事です。
Posted by nama at 2010年09月28日 15:22
>nama様
駄文で埋めてしまってすみません(笑)
青春小説風に書いたら自分でも観察し直せて伝わるように書けるかな、
と思いましたが・・・後半息切れしてます。。
次はまた題材を変えて書きます!
ここの蓋はかなり丁寧に作られてますよ。ガタつきもなくてつるつるで。
Posted by しかすけ at 2010年09月28日 21:39
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