2015年06月29日

0608 戸越銀座の暗渠・川跡(前編)

つい数日前、本田創さんのブログ記事「戸越銀座最深部の暗渠へ」を読ませていただき、ふと思い出したことがあった。以前、戸越銀座にあるケーブルテレビ品川さんの2番組に出させて頂いた時に、ついでに歩こうと思いつつ行かずじまいになっていた暗渠があったのだ。もっとも、机上調査ばかりで歩かない暗渠のほうが多いのだけど・・・。

せっかく思い出したことだし、夏場からは取れる時間も少なくなるので、今のうちに歩いてしまおうと思う。どうせなら戸越銀座の谷全体を一度に歩きたい。

今回の地図はこちら



自分は暗渠・川跡を調べる際には、非常に直線的なやり方をする。

第一にさまざまな地図・航空写真というヒントから流路を推測する。第二に現地で実況見分した結果と推測を照合し、妥当かどうかを判断する。ひたすらこれである。基本的に文献や証言は集めない。自分は地図屋であり、また散策家だから、これで充分楽しめてしまうのだ。

何よりも、筆界は裏切らない(筆界=土地の境界線)。明治の地租改正時に決定づけられた地番と筆は、全体を覆すような区画整理でもしないかぎり、かなり残っている。逆に土地境界の形状にすら嘘をつかれたのでは、我々は安心して家も建てられない。もっとも私は別の意味で建てられないが・・・。いつか地図と散策で家を建てたいものである。


前置きはこのくらいにして、今回は東海道新幹線より西の戸越銀座の谷を歩く。それより東はまったく様相が変わっていて、そもそも戸越じゃないので。現在は長い直線の商店街として有名な戸越銀座界隈は、大正頃までは田圃や湿地だった。南北両側に坂・崖がありそちらが一足先に宅地化していき、谷底の直線的な道路は後からできたものだ。戸越の川跡が直線だったわけではない。

明治〜大正の地図において、戸越の川の流れはおおむね西から東へと進み、現在の戸越銀座の東端(三ツ木通り会)で南東へと曲がっている。机上では、この曲がりが土地境界に表れている。まずはここを現地で新幹線のほうから見てみよう。

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北西(上流)を向いた写真。駐車場は崖下にあり、2本の階段がある。低いほうの石積みが、おそらく河川敷との境界である。地図では反対側(商店街側)に上から見ると三角形の家屋があるが、土地が昔からこう切れてでもいない限り、こんな家は建たない。どちら側にも河川敷そのものはないが、筆界にその川跡は「はっきりと」残っている。下の写真、駐車場の川筋を伸ばしたあたりに埋まっている石がもしかすると遺構かもしれない。
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谷筋は三ツ木通りからしばらくは商店街の道とほぼ平行する。下水道台帳図で雨水管が始まる位置にある三ツ木公園は元は公設市場だったという。小さな敷地だから、おそらく公設小売市場なのだろう。その公園付近には旧三井邸(文庫の森・戸越公園)方面への道が南西に伸びていたようだが、これは完全になくなっている。しかし幸い川跡とほとんど関係ない。

戸越銀座に入り川跡が蛇行し始めるのは、おそらく戸越二丁目6のあたりからである。以下の西(上流)向きの写真を見ていただきたい。

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商店街の通りは確かに触れ込み通りの「ほぼ」まっすぐだが、なぜか左右にズレがある。この左側(南側)こそ、川の蛇行跡である。水路敷は公共用地(現在は市区町村のもの)だからここまではそれを利用して道路にしたのだろうが、ここからは曲がるために川跡を追って道路にするのは諦めたのだろう。

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染物屋を発見(写真上)。これが商店街には間口がなく、南の奥に入ったところにあるというのも、川跡が通りを外れているためかもしれない。この少し先で、蛇行側へ入れて通りぬけもできる路地を覗いてみた。

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階段がある。おそらくこの段差の下が河川との境界だ。そしてこの上には(痕跡はなかったが)明治期の地図では細長い池があったようだ。ため池だろうと思う。私の地図には池の推定位置(若干はずれると思う)もプロットしておいた。他の大きい池も同様だ。

路地は段差を維持したまま宮前坂まで続く。過去の地図では、路地出口あたりから今度は谷の北側へと主流路を変えている。ここは道路形状ともども消失しているため、推定位置のプロットのみとなる。新道を作った時に不整形地になる場合、ある程度土地を整理することはある。

なお池は谷の南側に沿って3つが確認できる。谷底よりやや高い位置にあるが、人工池の跡の場合は微地形はあまり関係ないだろう。

池のほとりと思しきところにお社があった。

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池との境界であろう土地も、やはり段差を支えるやや古い感じの擁壁が健在だ(写真下)。戸越銀座温泉や戸越二丁目広場あたりも位置的に池の土地の一部ではないかと思う。ただし池は河川と違い、所有者が国や自治体だったとは限らない。

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さて、北側の流れを追う。一本北の路地あたりに顔を出しているはずである。

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上の写真(東=下流向き)のあたりで右から出てきて消失部分が終わっているのではないかと思う。左の家屋はセットバックしているが、その奥の家の擁壁部分はさらにもう一段階造りが変わっている。つまりセットバック前から道路に幅の差(=公共用地の広がり)があったのではないか。ただし、もう少し奥からという可能性も捨てきれない。悩みは尽きないが引き返して上流へと進む。

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同じ路地の上流側は写真上のような感じで、セットバックを考慮してもやや歪みが感じられる。と、左側を見てみると・・・。

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支流と言うべき排水路が接続していた。ごく短いがおそらく水路敷として残っているものだろう。表通り(商店街)までその敷地が続くのかはよくわからなかったが、こうしたものを発見すると予測流路としては自信がつくというもの。

さらに上流側へと進んで、戸越台中学の手前まで来た。そこにあるのは、暗渠サインとして名高い、これ。

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クリーニング店(写真は下流向き、背後が中学校)。現在の暗渠(地下に下水管が通る)である商店街ではなく、その通りから3軒奥にクリーニング店があるということの意味は深い。

ここで戸越台中学に突き当たって路地はなくなってしまう。いったん現在の地図に戻って、戸越台中学の敷地の形を見ていただきたい。南側が出っ張ったような不整形になっていると思う。これはほぼそのまま、蛇行の跡である(東京時層地図とか持っている方は第二京浜の東側を確認してみてほしい)。水路跡=公共用地の使い道として、学校用地の一部になるというのはよくある形式だ。

第二京浜を渡る。ここから南にも深い谷があったはずだが、道路に潰されてしまっている。本流跡と推測する土地には区営駐輪場があった(写真下)。土地の履歴はわからないが、ずっと公共用地だったとしたらこれも痕跡のひとつだろう。

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第二京浜より上流側も、商店街の通りより北側に流路があったと推測する。マンション階段下のこのグレーチング溝も位置的に川跡と重なる。ちなみにこの先は公共通路らしく、上に登ることができる。このあたりの崖は家屋の一階分くらいの高さはあり、少なくともその崖下を谷戸北側の水路が流れていたのではないだろうか。谷戸は田として利用する都合上、両端ともに水路がある場合が多く、またそれぞれがまったく別の川であるなんてこともある。

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これは商店街から戸越銀座駅の駐輪場(左の段差上に階段がありそこから入れる)につながる路地だが、このあたりを川が横切っていたのではないかと思う。埋まっているちょっと古い擁壁も気になる。このあたりは古い地図に細流の記載がなく、家屋形状から土地境界を想像し高低差を考慮したごくごく推定度合いの高いものであることをご了解願いたい。

長くなってしまったため、戸越銀座駅から先は次の記事で。ちなみに、冒頭で思い出した暗渠はここまででまだ出てきていない・・・。

中編(つづき)はこちら


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タグ:品川区
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